タコ型宇宙人の恐怖

 

 ある大都会の夜。人通りの絶えた街中を若い女が歩いていた。
 ピンク色のヒールを時折路面に躓かせている所を見ると、女はどうやらアルコールを飲んだ帰りらしい。終電が迫っているのか足取りはやや早足だ。
 やがて女はショーウィンドウが寂しく光るビルの角に差し掛かった。一寸立ち止まり、そして意を決して脇の路地へ入ってゆく。
 そこはビルとビルとの間の谷底のような路地だった。明かりは通りを抜けた先に見えるオレンジ色の街灯だけ。女の身が一人で歩くには危険な区間だ。しかし、その夜は急いでいたし何より若かった。真夜中とはいえ都市部であり大声を出せば誰かに届くだろうという打算もあった。
 女は一歩ずつ地面の感触を確かめるように歩みを進めた。こう暗くては足下に何かが落ちていても気がつかないだろう。一歩踏み出す毎に底の見えない黒い穴に落ち込むようなヒヤリとする錯覚に陥る。何メートルも進まないうちに、この道を選んだ事を後悔し始めていた。
 やっとの思いで路地の中間まで辿り着いた。ここまで来ると出口は間近。先程までの不安が消え去って女の心には安堵感が広がった。なんだ、やっぱり何も起こらないじゃないか……さっきまであんなに怯えていたのが馬鹿らしい。
 その時、油断していた女のうなじの辺りに生臭い風が漂った。女は思わず足を止めて後ろを振り返ったがそこには何もない。ただ、夜の闇と自分が通ってきた路地が伸びているだけ。
 女は鼻腔をひくつかせた。近くのゴミ捨て場か下水の臭気が風に乗って運ばれてきたのだろう。嫌な臭いだ。やはり一刻も早くこの路地を抜けてしまおう。女は再び歩き出した。しかし、続いて更なる恐怖に見舞われる事になった。
 いくら歩いても路地の出口に近づかないのだ。それどころか、大通りの街灯はどんどん小さくなってゆく。「嘘、どういうこと」女は泣きそうになりながら必死に脚を動かし続け、そしてハッとした。足が地面を蹴る感触がない、体が浮いている……女の精神は最早限界だった。半狂乱になって叫び声を上げる。
 しかし、叫び声が誰かに届く事は無かった。瞬間、『柔らかい何か』が女の頭に巻き付いて彼女の口を塞いだのだ。女が咄嗟に『それ』を握ると、指がぐにゃりと喰いこんだ。生肉を思い切り掴んだような感触だった。
 女は呻き、振り解こうとしたが『それ』は頭に奇妙に張り付いて離れない。女の体がぐわっと宙に持ち上がった。女はその時になってようやく『それ』が腰にも巻き付いている事に気付いた。
 女の体をいとも容易く持ち上げた『それ』。その正体は確かに太さが腕ほどもある触手だった。女は空中で四肢をバタつかせたが、後方から一本、また一本と触手が伸びて女の手足を緊縛する。遂に触手に雁字搦めにされてしまった女は、声にならない絶叫と共に急速な勢いで建物の隙間の暗闇へと引き込まれて行った。
 洋服がはだけ、茫然自失の状態で路上を彷徨う女が保護されたのは、早朝になってからだった。
 「タコが、タコが、」
 女は締まりのない口元で何度もそう呟いた。

 

 今月に入ってからというもの、○○署は管内で多発している奇妙な事件への対応に追われていた。
 夜道を歩いていた通行人が突如行方不明になり、朝方になって路上で発見されるという事件だ。被害者同士に接点はなく、年齢・性別・推定犯行現場もバラバラ。完全な通り魔的犯行である。
 被害者たちは何らかの強い精神的ショックを受けたようで事件後は全員、極度の無気力、鬱状態に陥っている。都合の悪い事に皆、ある種の失声症まで併発しているようで、事件当夜についての明瞭な証言は今まで一切得られていない。警察は事件に薬物の類が使われたと見て捜査を進めている。
 更に奇妙なのは被害者達が呟くうわ言の中に『タコの怪物』というホラー小説じみた言葉が共通して現れる点だった。
 ある日、捜査に行き詰った刑事が、入院中の被害者の一人に、パックに梱包されたタコ足の切り身を見せた。物は試し、半ば悪ふざけだったその試みは意外な反応を引き出した。目の前にタコを差し出された被害者は刑事の手を払い除け、ベッドから転がり落ちて病室の壁際に追い詰められた。過呼吸のように息を荒げるその様は明らかに尋常ではなかった。刑事はただちにナースコールを押した……。
 この出来事があって以降、漁業関係者や鮮魚を取り扱う職業人までもが捜査対象に入った。しかし、案の定と言うべきか、藁にも縋る思いで拡張した捜査の網は未だに何の成果も上げられていない。
 一方で襲撃犯は活発の一途を辿っていた。最初の数件は二、三日の間隔が置かれていた犯行も最近では毎夜続くようになっており、先日に至っては一晩に三人もの被害者が確認されている。
 死亡者が出ていない、性犯罪の可能性がある(最初の被害者は若い女だった)、何より事件の全容があまりに不透明で要領を得ない、等々の理由からメディアは当初この件を取り上げなかったが、被害者も増えていよいよ無視している訳にもいかなくなってきた。まずは週刊誌、次は新聞の三面記事、今日はテレビ……扱いは日を追う毎に大きくなる。世間の注目が大きくなるにつれて不甲斐ない警察への風当たりも強まる一方であった。
 昼下がりの○○署、署内食堂の片隅に据え付けられた大型テレビが午後のワイドショーを垂れ流している。近未来的な意匠のスタジオで小太りの男が何かをまくし立てている。男の側には『宇宙人・UMA・超常現象ライター H何某』というテロップが出ている。このHという男、ひと月前まではしがないオカルト作家に過ぎなかったのだが、件の被害者の発言がマスコミに漏れてからはコメンテーターとして頻繁にテレビに出演するようになっていた。感情的な語り口や独特のキャラクターが面白がられているようで、お茶の間からの人気は高い。お陰で本業である著述も売れ行き好調らしい。
「あいつ、またテレビ出てるよ」
 蕎麦を啜りながらテレビを眺めていた壮年の制服警官がポツリと呟いた。隣の席でカレーライスを食べていた硬骨そうな刑事が気だるげに言った。
「あいつ、昨日スゴイ事言ってましたよ」
 残りのカレーをスプーンでかき寄せながら刑事が続けた。
「奴が言うには、警察は既に宇宙人の存在を把握してるけど、警察庁上層部からの命令で隠蔽してるんですって。冗談じゃない、全く」
 刑事は余程腹に据えかねていたようだった。それを聞いて壮年の警官は笑った。
「じゃ、俺は奴の身辺調査してる若いのと交代してきますんで」
 空いた食器を載せたトレイを持って刑事が席を立った。Hはしばらく前から警察の監視対象になっている。理由は単純、一連の事件で最も恩恵を受けたのがHだからである。立ち去る刑事の背中に向かって壮年の警官が声を掛けた。
「疲れた顔してるな。あんまり無理はするなよ」
 硬骨そうな刑事はその言葉に応えず、日常と非日常の境があやふやになった慌しい公務へと舞い戻っていった。

 

 1ヶ月後。静まり返った町並みに夕陽が沈む。
 今となっては夜中は勿論、昼間でさえ無闇に外を出歩く者はいない。政府から正式に発令されたモノではないが、実質的に戒厳令下といった有様である。日頃混み合っていた道路が随分と広く感じられる。ここ数日、新たな被害者は確認されていないが、犯人についての手掛かりもまた得られてはいない。 
 ○○署内はガランとしていた。ほとんどの署員が出払っており、残された署員も疲れ果てている。赤い夕焼けとコントラストをなす黒い影が建物の内側に満ちて、より悲壮感を強めている。
 あらゆる方面からの圧力に堪えかねた警察は、遂に周辺地域をも巻き込んだ大規模なローラー作戦に打って出た。立ち入り可能な全箇所の調査、全戸訪問、防犯カメラの総ざらいである。途方もない労力を要する作戦だが、それに見合う何かが得られる確証はない。それでも断行したのは一種のポーズに他ならなかった。
 一方で世論の警察へのバッシングは止んでいた。この期に及んで警察に解決を期待している者は少ない。市民は警察機構が正体不明の犯罪に敗北する悲惨さを痛感し始めているのか。
 当初は事件を面白おかしく消費していたマスメディアの論調も最近では様変わりしていた。近頃テレビによく出るのは警察OB、心理学者、テロリズムの専門家、犯罪史学者。少し前までテレビ画面を賑わせていた面々と比べると、随分生真面目な面子だ。しかし、彼らの知見を以ってしても視聴者を満足させる答えは提示できていない。
 無人の街の中で、その広場にだけは人々の群れができていた。
「皆の衆よく聞け!終末の時は間近に迫っている!」
 赤いローブのような上着を纏った小太りの男が人々を前に大声で演説している。男の両目は血走り、口の端には唾液が白い泡になって溜まっている。その姿はまさしく狂人だったが、集まった人々は男をジッと見つめて目を離さない。この場にいる全員の心の中には男のそれと同様の熱が潜んでいる。
 まるで波紋が広がってゆくように、人々の精神には恐慌が忍び寄りつつあった。市の港湾から望む水平線が茜色に染まる。今日も夜が来る。そして、事態はまた悪化するのだ。
 異変が起きたのはそんな不安が閾値を超えた瞬間だった。
 それは偶然にも、とあるコンクリート造りの建物の一室で黒い影法師だけになった二人が互いに抱き合ったのと同時であり、またそれは市内の見取り図と延々にらめっこをした末に、執念深い刑事が見出した市の地下を走る暗渠網の奥地に彼が足を踏み入れた瞬間でもあった。
 すっかり濃紺になっていた東の空に突然、巨大な白い光が浮かび上がった。光に気付いた多くの人々が次第に表に出てくる。しばらく無人だった町が久々にざわめいた。
 皆、打ち上げ花火でも眺めているかのように夜空を仰いでいた。彼らの頬は空に浮かぶ光によって白く照らし出されていた。
 人々が光に見慣れた頃、夜空に甲高い金属音が鳴り響いた。次の瞬間、光の中から現れたのは、平たい皿を上下に重ね合わせたような円盤状の、それはもう、冗談のような銀色のUFOだった。
 呆然とするしかない群集をよそにUFOは大きな体をクルクルと回転させていた。プツ、プツ、というノイズと共にUFOから何か音楽が流れ始める。騒然とする街には不相応な優美な旋律。群集の中にいたクラシック好きの男によると、その曲は間違いなくミヨーの『春』であった。

 

 テレビが点いた。どこかの公館の一室の風景が画面に映る。
 青いベルベットの垂れ幕を背景として、左手にはメガネを掛けた老人。彼は何とかという大学の教授で国際機関の役職にも就いている著名な学者である。そして右手に据えられたソファには体長二メートル以上はあろうタコの怪物が無数の赤黒い触手をゆったりと寛がせて座っている。
「連日ではありますが放送を行いたいと思います。この対話は全世界に同時中継されています。何せ人類史上で最も重大な出来事です。地球に住む全ての人間に広く知らしめなくてはなりません……まず、あなたの呼び名ですが、前回までの対話ではクオ・オー・トーと名乗っておられました。そうお呼びしてもよろしいですか」
 老人の問い掛けにタコの怪物が答えた。怪物の頭(と思しき箇所)に口らしき器官は確認できない。一体どこからどのように発声しているのか分らないが、とにかく怪物は体躯に似合わない高音で答えた。
「エエ。厳密にはもっと複雑な発音があるのですが、地球人に言い易く改めるとクオ・オー・トーとなります」
「クオさんと呼んでもよろしい?あなたは随分遠くの銀河から宇宙船に乗ってやって来たそうですね。どのくらいの時間、旅をしてらしたのですか」
「呼び易いように呼んで構いませんよ。詳しくはまた後で説明する機会もあると思いますけど、あらかじめ理解して欲しいのですが、我々の航法では目的地に到着するか否かは確率的であり、到着までの時間は常に一定ではありません。その上で私が移動に費やした時間ですが、ザッと百五十年といった所です。地球人の皆さんは長いと感じるでしょうが……これは我々にとっても長過ぎる旅でした。ですが、その価値はありました。我々にとっても知的生命体との接触は初めてなのです」
 対話は滞りなく続いた。老人の質問にクオ・オー・トーは簡潔に答え続けた。時折触手で身振り手振りを交えたり、逆に地球の文明についてクオ・オー・トーが質問したりする場面もあった。
 そうしているうちに番組が始まってから三十分が過ぎた。老人が水差しの水をコップに注いで一口飲んだ。
「クオさん、悲しい話をしなくてはなりません。あなたが最初に上陸した○○市ではあなたと接触した何名もの人間が精神に重篤な異常をきたして、今でも病院で治療とリハビリを受けています。この事について所感をお聞かせ願えますか」
 クオ・オー・トーは思案するように少し間を置くと、触手の一本を頭部の前で軽く内巻きに巻き込んだ。
「まず、私が加害してしまった皆さんに私個人として、そして我々の文明の代表者として心より謝罪します。皆さんの快癒を願っています。治療に必要な技術的支援は惜しみませんし、お受けになった損害につきましても完全に補償する事をお約束致します。まだ地球の文化を完全に把握していないのですが、我々が地球にもたらす利益の中から、幾許かが補償に回るように働きかけるといった形になると思います」
 クオ・オー・トーはここで僅かに言葉を区切った。訴えるように左右二本の触手を掲げる。
「弁明させてください。誓って私に一切の害意はありませんでした。今回の件はかけ離れた文明同士が接触した為に起きてしまった不幸な事故なのです。理解し難いかもしれませんが、我々の種族にとっては相手に恐怖を与える事は親愛の現れなのです。つまり、挨拶と言えばいいでしょうか」
「ほう、にわかには信じられませんが興味深いですね」
「ご理解いただくには我々種族の生態について説明する必要があるかもしれません。我々の触手は見ての通り腕や脚として使われるのですが、地球人で言う所の体毛や爪のような特性もあるのです。つまり、生涯に渡って無限に伸び続け、新たに生え変わるモノなのです。しかし、余りに膨大な量の触手は生存の妨げになります。そこで私たちの祖先は安全で簡単な切除方法を編み出しました。すなわち、我々の触手に宿ったもう一つの機能、自切によって伸びすぎた触手を処理する方法です。あ、現代では生化学的な手法で成長を抑制していますよ」
 クオ・オー・トーは饒舌に語っている。それが真実か確かめる術はなく、老人は黙って頷きながらそれを聞いている。
「我々の母星は天敵の少ない海の惑星です。本来、我々は群れを作る習性がなかったのですが、この自切の為に集団で生活するようになりました。互いに脅かし合うようになったのです。心理的な負荷を掛け合う事こそが我々にとってのコミュニケーションの基本形なのです。勿論、実害を与えるような事はありませんがね。今回の件は我々の文明の流儀で接触を試みたのが失敗でした。まさか、ビックリさせただけで生命に障害を負う種族がいるとは思わなかったのです」
 ここで老人が口を開いた。少し困ったような表情を浮かべている。
「成る程。私には理解できますし、私は立場上あなたの言い分を最大限尊重しますよ。しかし、全ての人間を納得させる事は出来ないでしょう。過激な発言をする人達も出てきています。あなたのやった事は闇討ちじゃないか、とね。敵意がない事を証明できますか」
「ええ。皆さん今一度、冷静になってお考えください。我々の文明は遠くの銀河から何年も宇宙旅行を続けられる技術力を有しています。つまり……質と量の両面で地球文明を凌駕しているのです。本当に敵意があるのなら回りくどい事をする必要なんてありませんよね。違いますか?」
 クオ・オー・トーはそう言うと、口も鼻もなく、剥き出しの丸い眼球だけがギラギラと光るその顔をほころばせた。
 
 

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