赤いニ重箱

 

 得体の知れない焦燥感に襲われて俺は目を覚ました。
 最悪の目覚めだった。体を起こすと、布団代わりに俺の体を包んでいた大量の洗濯物の一部が押しのけられ、長い間掃除機も掛けていない床にずり落ちた。
 眠っていたはずなのに眠った気がしなかった。俺は何かを考える間もなく、頭だけを動かして自分の意識を急速に叩き起こした犯人を探した。
 そろそろ住んで8年になる鉄筋コンクリート作りのワンルームが暗闇に沈んでいた。
 年中閉めっぱなしのブラインドの隙間からは僅かな光も漏れていない。街路を走る車の音も一切聞こえてこない。現在の時刻は深夜のようだ。
 俺は一体どのくらい眠っていたのか、思い出そうとすると壁に行き当たったように頭がズキンと痛む。
 床には空のペットボトルや紙切れが乱雑に捨て置かれている。その他、微小な埃がゴミの影に堆積しているはずだが俺にはどうでもいい事だった。いつの間にこんなに散らかったものか、言い換えると最後に床の清掃をしたのがいつ頃の事か、見当も付かない。
 視線を静かに水平に滑らせる。部屋の右隅に備えられたキッチンを視界に捉えたその瞬間、俺は自分の置かれている状況を唐突に思い出した。
 ベッドから跳ね起きて、部屋の散乱物の合間をつま先立ちで一歩二歩と飛んでゆく。
 本来は車の後部座席に放り出されているはずの大型クーラーボックスがキッチンの壁沿いに静かに鎮座していた。そこは俺がいつも出先から帰ってきた時に荷物を放り出す場所だった。
 クーラーボックスの前に立ち尽くした俺は震える手でそれを開けようとしたが直前で思い止まった。尻込みしたと言った方が正しいのかもしれない。
 それもそのはずだった。このクーラーボックスの中には子供の死体が入っているのだ。

 

 大半の人間が一生のうちに陥ることの無いであろう極限の状況で、俺は意味も無く部屋の中をグルグルと歩き回っていた。時折、頭をぐしゃぐしゃに掻き毟ったり、何かを踏みつけたくてベッドに登り、また降りたりした。泥酔した時のように感覚が曖昧だったが、酩酊時特有の幸福感はなかった。ただ焦りと不安が俺の脳内を支配していた。
 一体、クーラーボックスの中の子供は何者なのか。
 俺は未だにクーラーボックスを開けられずにいたが、おおよその察しはついていた。寝起きに唐突に蘇った光景。夕方、郊外のスーパーマーケットの食品売り場で俺が買い物をしていると俺が右手にぶら下げていた買い物カゴにガシャンという衝撃が走った。紛れも無く後ろから何かがぶつかった衝撃だった。俺が振り返る間もなく、俺の腰まで背が届かないほどの小さなガキが脇を走り抜けていった。一言の謝罪や、驚き、罪悪感といった感情の欠片すら見せずにただ一目散に……。
 そこから先は頭の中に白い霧が掛かったように一層記憶が曖昧になる。断片的に思い出せるのは日没後の暗い駐車場を一人でトボトボと歩くガキの後ろ姿。そしてクーラーボックスを肩に掛けて帰宅したこの薄汚い部屋と、疲れ果てた俺を引き寄せる衣類が山のように積み重なったベッド。

 

 地平線の遥か遠くで大気を切り裂くような大きな音が響いた。深夜から未明にかけて毎晩のように爆走するスポーツカーの排気音だろう。その夜の街を威嚇するような爆発音のリズムは曖昧だった俺の精神を刺激して現実を直視させた。
 ベッドの真横に立ち尽くしたまま俺は考えた。どのくらい眠っていたのだろうか。夕方、買い物に出た時は太陽が地平線へ沈む間際だった。店内で買い物を済ませている間に日は完全に沈み、俺は駐車場でガキを殺し、ガキの死体をクーラーボックスに押し込んでこの部屋に帰宅、そのままベッドに倒れこんで眠る。そして目を覚ましたのがついさっき。時間帯としては深夜に当たるだろう。
 さすがに丸一日以上眠っていたわけではないだろうし、ガキを殺したのが午後6時と仮定して、既に7時間以上も経っている事になる。
 俺は奇妙な事に気がついた。
 ガキの両親はもう何時間も前に警察に捜索願を出しているだろう。目撃者や監視カメラの映像があれば俺のアパートまで辿り着くのは容易なはずだ。そろそろ、否もっと早くこの部屋に警察が踏み込んでいてもおかしくはなかったはずだ。
 俺の脳内に直感が閃いた。警察がまだ俺を捕まえていないということは、目撃者も監視カメラも存在しなかったのだろうか。それなりに人の出入りが多い夕方のスーパーマーケットにおいてそんな事はありえないように思えるが、しかし可能性がゼロであるとも言い切れない。ガキを殺した時の状況は未だに思い出す事ができずにいるが、駐車している車と車の合間の死角でやったか、ガキを車に誘い込んで人気のない場所まで移動してやったか。いずれにしても現場を押さえられていないのであれば希望が見えてくる。国道沿いに構える郊外のスーパーマーケットには遠方からの客も多いだろう。全員しらみつぶしに当たるのは警察としても骨が折れる作業に違いない。
 時間……それが絶体絶命の俺に与えられた、細く頼りないが紛れも無く光り輝く蜘蛛の糸だった。

 

 自分にも希望がある。そう思うと俺の心の中で消えかかっていた生存への意思が再び息を吹き返すのを感じた。
 人を殺して、その死体を抱えている以上、いずれ時が来ればゲームオーバーだ。警察が俺を探り当てるか、死体が腐敗して隠し切れなくなるか。
 しかし、猶予を与えられたのであれば、時が来るまであがき続けるのが賢い選択だろう。
 考えるべきはガキの死体を遺棄する方法だ。できるだけ早く、なおかつ誰にも怪しまれずに死体を人目に付かない場所まで運ぶ必要がある。
 俺は改めてクーラーボックスの前に立った。大きい、中に何が入っているか知っているだけにそれがそのまま棺桶のように見えた。実家から持ち出してきた年代物で、最近は釣りに出かける事もなくなり、置き場所にも困って結局、車の中に随分と放置されていた代物だ。重量感のある大きな箱によく似合う厳つい金属の止め具が二つ、箱の両端近くに付いており、まるで金庫のような物々しい存在感を醸し出していた。
 これは……持ち歩くのは不可能だ。車から部屋までの短い距離ならまだしもこんな物を持って道路を歩いていたら目立ちすぎる。俺は殺人者なのだ。他人との接触はおろか誰の記憶にも残らないように行動するのが望ましい。
 しかし、部屋の中でクーラーボックスを開いて中の死体を別の『入れ物』に移し変えるのも憚られた。じっとクーラーボックスを見つめていると、心なしか酸化した血痕のようにどす黒い色をした気配が滲み出てくるような気がする。
 俺はさっき、このガキを殺したのは7時間以上前だという仮説を立てたが、人間の死体という物はどのくらいで腐敗し始めるのだろうか。俺には見当も付かないが食品として処理された精肉よりはずっと早く腐敗し始めるだろう。クーラーボックスの中には当然保冷剤など入っていない。こうしてる間にも密閉された箱の内部では腐敗が進み、人が嗅げばわかる程の悪臭ガスが既に充満しているかもしれない。俺はガキの死体は糞の付いたパンツのようだと思った。
 どうせ死体を遺棄する場所は俺から遠い場所にするつもりだ。クーラーボックスのまま車で持ち運び、何かに移しかえるにしても人の立ち寄らない野外で、素早く行う事にしよう。
 では何所に死体を遺棄しようか。俺が真っ先に思いついたのは山奥の深い藪の中に穴を掘って埋めるという手法だったが、自分の中ですぐに却下した。聞いたところによると野生動物というのはいくら地中深く死体を埋めようと、三日足らずで掘り返してしまうらしい。しかも日本の山林は管理が行き届いていて、人間の死体などが落ちていようものなら、よほど山深い場所でないかぎりすぐに見つかってしまう。第一、俺は死体を埋め立ててもバレないような密林に心当たりはない。
 山がダメならば海はどうだろうか。死体や人に重りを結びつけて船に乗せて沖に沈めるというのは犯罪映画でよく使われる手段だ。実際に暴力団やマフィア等でも同様の手口で遺棄が行われているらしい。
 しかし、この方法では沖に出る為の船が必要となる。当然だが俺は自由に使える船など持ってはいない。釣り人に紛れて海釣り漁船に乗り込み、頃合を見計らってクーラーボックスを海に投げ入れるか?いや、船に乗ってクーラーボックスを一回も開けずに何故か海に投げ込む釣り人など絶対にありえない。誰かと少しでも接触する手段は発覚のリスクを増やすだけだ。
 その時、俺は閃いた。人間は追い詰められると如何様にも妙なアイディアを思いつくものだ。
 アパートから2時間ほど車を走らせた所に太平洋に面した堤防がある。周囲には建物もなく、近くに釣り場として著名な港がある為に釣り人も滅多にそこを訪れる事はない。町と町の空白地帯と呼ぶのがふさわしい場所だ。
 そこは護岸の関係で堤防に沿って淵のように水深が深い上に年中波が打ち寄せていて地上から水中の様子を窺う事は不可能だ。
 俺は早朝の釣りを装って堤防の近くに車を止めてクーラーボックスを持ち出す。傍らにクーラーボックスを置いて、針にエサをつけずに釣り糸を垂らす。当然魚が掛かる事はなく、イライラしはじめた俺はクーラーボックスに足を掛け、揺り篭のようにゆっくりと揺らし始める……朝からのドライブで猛烈な睡魔に見舞われていた俺はそのままクーラーボックスを堤防から蹴り落としてしまう。あらかじめ重りを取り付けられていたクーラーボックスは海中に沈み、そのまま二度と俺の前に姿を現す事はない。 完全な計画だ。その後は「やってしまった」というような手振りでもして、「やれやれ」といった具合に車の中から予備に積んでいたバケツでも取り出してそのまましばらく釣りをやっていれば良い。そして成果のない哀れな釣り人として、うちに帰るのだ。

 

 窓から差し込んだ赤い光が部屋の中を照らし出す。赤い光に染まった部屋は暗い部屋よりも影の黒が強いような気がした。
 少し前の俺ならばパトカーの赤色燈と勘違いして大慌てしたかもしれないが、今は落ち着いている。この赤い光は通りすがりの車のブレーキランプだ。
 俺の思った通りだった。すぐに赤い光は排気音と共に過ぎ去ってゆき、部屋に再び静かな暗闇が戻った。
 計画は立った。時計を見るとまだ夜中の3時を回った頃だった。忌まわしい死体とおさらばする前に少し眠るのも悪くない。実行する前に事故で警察の世話になるなんてあまりに馬鹿馬鹿しい事だ。
 過度な緊張で硬くなった肉体をベッドに横たえると、計画の成功をより確実な物とする為、静かに目を閉じた。

 

 そして俺は目を覚ました。窓には白い真昼の日差しが降り注いでいる。太陽の健康的な輝きは暗闇に閉ざされた俺の精神も遍く照らす。
 全ては夢の中の出来事だと気がつくには長い時間を要さなかった。俺は安心すると同時に不思議な落胆も覚えていた。子供の死体が入ったクーラーボックスも、焦燥に満ちた暗い部屋のひと時も全てが脳と記憶の不思議な作用が作り出した幻に過ぎなかったのだ。スーパーマーケットで子供がぶつかってきた記憶は確かに存在するが、昔体験した記憶を脳が勝手に引っ張り出して夢を構成する材料として使用しただけなのだろう。夢の中の俺が頑なにクーラーボックスを開けなかったのも、子供の死体を夢で表現する事ができなかった為だ。結局、俺が夢の中で思いついた死体遺棄の天才的なアイディアは『死体を見ることなくクーラーボックスを始末する』という無意識の制約下で形を成した苦肉の策に過ぎなかったのだ。
 そこまで思い至った瞬間、どこかで感じた事のある閃きが俺の脳内でスパークした。
 つまり、現実世界であれば体験の描写に制約は無い。わざわざ人目に付くリスクを侵して車で死体を移動させる必要も無く、部屋の中だけで完全に死体を始末する事もできるはずだ。例えばガキの僅か10キログラム程の死体を台所で解体する。そして小さな肉片として秘密裏に処分する。トイレに流すか生ゴミとしてゴミ収集に出すか。あるいは俺自らその死体を……。
 相変わらず埃っぽいアパートの一室で、白昼の光に追いやられていた何かが俺の中で再び牙を剥いた。


 

   ここまで話し終えて奴は再びいつものニヤニヤ笑いを始めた。
 もう何時間もこの調子だ。コイツが量販店の駐車場で見ず知らずの子供を首を絞めて殺害し、子供の親と警備員に取り押さえられてこの取調室に担ぎ込まれてからというもの、延々と黙りこくって部屋の隅を見てニヤニヤしている。俺が大声を出すと一瞬驚き、目を見開いたまま掠れたような小さな声でアパートだのクーラーボックスだのと呪文のように早口でまくし立てる。そして話が全て終わると再び部屋の隅を見つめてニヤニヤ笑い始める。
 精神鑑定を狙ったパフォーマンスのようにも思えるが、それにしては犯行自体が衝動的過ぎるし、動機がまったく見えてこない。
 一体、何故子供は殺されなければならなかったのだろうか。

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