幻の海

 

 夜気に湿った防波堤の先に広がる暗い海原を白い人影が歩いていた。 
 水平線の真上、高く中空には丸い粒のような満月が黄色い燐光を放ち浮かんでいる。 
 車道を挟んで街灯を背にした私からでは海面の波模様を窺うことはできない。
 漂っている筈の潮の香りも、夏の夜風に乗った草の香りに掻き消されてしまう。 
 ただ、打ち寄せる小波が頂点で弾ける周期的な波音が夜道に流れる。 
 路上に立ち尽くした私は、海洋上の白い人影をじっと見つめていた。 
 それを見つけた私は自分の目を疑った。何度も焦点を改めたが、影は当たり前のように視界の遥か奥にぽつんと在り続ける。 
 それは余りに遠く、姿形を明確に掴む事はできない。しかし、それは縦長で四肢と膨らみを持ち、確かに人型のようであった。 
 岸からの距離を考えると、影はそれなりの大きさのようだ。少なくとも沖を流れる凡庸な漂着物を人間に見間違えたのではなさそうだ。 
 歩き慣れた帰宅の途上、よく見知ったこの海で、未だ嘗てこんな不思議な物体を目撃した事は無かった。 
 海の上の人影は、ただ悠然と横へ横へと歩を進める。 
 やがて、影が月の真下に差し掛かろうとしたその時、けたたましい轟音が背後で鳴り響き、ヘッドライトの光が辺りを容赦なく照らし出した。大型トラックがアスファルトを震わせて緩いカーブを走り抜けてゆく。 
 トラックが過ぎ去り、道路に静寂が戻った後、私は再び沖に目を向けた。しかし、いくら探しても再びあの白い影を見つける事は出来なかった。 

 

 あの夜以来、私は海岸沿いを歩く度にじっと目を凝らして白い影を探し続けた。 
 だが、期待とは裏腹に白い影は見つからず、海はいつも通りに寄せては引くを繰り返すばかりだった。 
 時が経つにつれ、私の好奇心と興奮は次第に風化し、あの白い人影に対する興味は薄れていった。 
 全ては、仕事終わりの倦怠に魘された私の見間違いだったのではないか。 
 古来より、人は海の向こうに様々な幻を見てきた。 
 不知火という、妖怪と観光名所が合わさったような扱いの、九州の神秘的な火の玉の正体が実は海上に写った蜃気楼であるというのは有名な話だ。 
 私が見た白い人影も、大気の温度差と、陸の光が作り出した物理現象の一つに過ぎなかったのではないか。 
 そうに違いない。それ以外に何があるというのだ。馬鹿馬鹿しい。
 あの夜の記憶は無意識下で私の中で結論付けられ、やがて白い人影の記憶は慌しい生活の中に埋没していった。

 

 それから一年程、時が過ぎ、再び初夏の夏がやってきた。 
 私が出入りしているK県海岸沿いの観光ホテルに一人、よく姿を見掛ける男が居た。
 年齢は三十代前半くらいだろうか。いつも光沢のある細身のスーツで全身を固め、黒髪にわざとらしいウェーブを掛けている。小麦色の肌。 
 両手の指にはいつも宝石の付いた大小の指輪がケバケバしく輝いており、それが彼のトレードマークだった。 
 身なりはどう見ても堅気ではない。ホストをやっている、占い師をやっていた、様々な噂を聞いた事があるが本当の所は分からない。 
 男は月に二、三度、宿泊客以外にも開放されているラウンジ兼バーに現れた。 
 基本的に連れは無い。海景色を一望できる席で静かにグラスを傾けているか、来合わせた客と笑いながら会話を楽しんでいるか。 

 

 ある夜の仕事終わり、ラウンジに立ち寄った私は、外の涼しい風に顔をそよがれた。風上を見ると、テラスへと続く扉が開かれている。 
 前日まで空を覆っていた雨雲が漸く姿を消して、空気は瑞々しく、胸が騒ぐような夜だった。 
 海を眺める習慣が未だに残っていた私は、何組かの客が談笑しているラウンジ内を横切って、テラスに出た。
 ホテルは崖の上の高台にある。テラスに立てば、遠くまで海を見渡せる。 
 私は、暫くじっと海を眺めていたが、そこには夜の水平線が、相変わらず無表情にあるだけだった。 
「随分と熱心に海を見るのですね」
 私に声を掛けたのは、あのスーツの男だった。 
 夜気に当てられていた私は、話し掛けられるまで、彼が隣に来ている事にも気が付かなかった。 
 男は犬のように丸い目で私を見た。香水か何かの化学的な甘い匂いがした。 
 「たまに来てますよね」そう言って男は微笑んだ。
「随分、熱心に海を見ていましたが、何か珍しい物でもありましたか?」
 私ははぐらかそうとした。海上の人影。そんな怪談話を信じるとは思われたくなかった。だが、男は存外に真面目な調子で言った。 
「何か異変があったら、教えてください。こんな事を言うと変に思われるかも知れませんが、実はあの海とはちょっとした因縁があるんです」
 いきなり妙な事を言い出す。いつも海の見える席を陣取っているのと関係があるのだろうか。 
 私はあの夜に見た白い影について話してやった。勿論、その正体は蜃気楼だろうという結論も含めて。男はただ黙って聞いていた。 
 私が全て話し終えると、男はグラスの残りを全て飲み干して「とても興味深い話ですね」と呟いた。 
「じゃあ、次は僕がお話する番ですね、どうですか。家に寄って行きませんか。この近くに住んでるんですよ」
 ラウンジを去る間際、背後の扉の隙間から内側を覗き見ると、中では疲れ顔のホテルマンが清掃をはじめていた。 

 

「いい眺めでしょ。僕は家に居る時も、飲んでいる時もいつも海を見ているんです」
 男はジャケットを脱ぎ、リビングの一面のガラス戸をカラカラと開けた。 
 ガラス戸は縁側のようになって、家の裏庭を見渡せる。男が部屋の電気を点けなかった為に、辺りは青い月明かりに満たされていた。 
 庭には潅木やリュウゼツランが植え込まれて、大いに繁栄しているようだ。そして、その茂みの向こうには男の言う通り、やはり一画の海が望めるのだった。
「古い家だけど中々気に入ってます。あのホテルのオーナーが別宅として建てたのを借りてるんです」
 籐の椅子を私に勧めると、男はキッチンへと引っ込んでいった。 
 ラウンジで男はホテルの近くに住んでいると言ったが、いかにもそれは本当だった。 
 ホテルを出た私たちは、駐車場の横手から伸びる下り坂に入った。坂はホテルの敷地外周にぐるりと巻き付くようにカーブしていた。 
 坂を下り切ると勝手口、室外機、ダクト等が密集するホテルの裏手に出た。奥には従業員の宿舎も見えた。男は私を先導して更に崖の方へ下る小径に入った。 
 小径の両脇には夏草が好き放題に伸びている。その突き当たりには木立に埋もれるようにして、一軒の平屋が建っていた。 
 それが男の家だった。上等な建材が色褪せて独特の風合いを醸している柱や格子戸。世間から隔絶された、まるでホテルの離れ座敷のような立地。 
 その佇まいは、独身男性の一人住まいというより、隠居した老人の終の棲家を思わせた。
「飲みますよね、どうぞ」
 そう言って男が出したのは、酒ではなく日本茶だった。男は急須と湯呑みを置いて何所かへ行ってしまった。 
 熱い日本茶を一口飲み下すと、それは想像以上に体に染み渡った。私の体はいつの間にこんなに冷え切っていたのか。 
 私はほっとして辺りを見た。暗くてすぐには気付かなかったが、リビングの一方の壁にガラスケースが一つ置かれていた。 
 やがて男が戻ってきて、部屋に柔らかなオレンジ色の照明が燈った。男の手には紫の風呂敷で包んだ、長さ二十センチ程の細い箱が抱えられていた。 
「ああ、こういう国内外の天然石だとか化石だとかの卸売りをしてるんです」
 男は片手に箱を持ち替え、空いた方の手でガラスケースから一つの小さな水晶を取り出して、私に手渡した。男は隅のスツールに座り、箱を膝に乗せた。 
「記念に差し上げます。あまり価値のある物ではありませんが、綺麗でしょう」
 水晶は透明の六角柱で、その内部には白い靄が封印されていた。 
「さて、あの海の話ですね」
 男は滔滔と語り始めた。話が進む内に男の目は見開かれ、眼球がせわしなく左右に動き始めた。 
 まるで彼の眼には当時の光景が甦って見えているかのようだった。 

 

 もう二十年以上昔の話になりますか。 
 当時僕は学生で、故郷の大学に通っていたのですが、人間関係の縺れで、とある事件を起こしてしまいました。 
 お恥ずかしい話です。今となっては若気の至りとしか言えないようなつまらない話なので、詳しくはお話ししません。
 事件の刑事的民事的な責任は免れたものの、結局それが新聞に載る程の大事になってしまい、暫く地元から離れなければならなくなってしまいました。 
 僕は肉体と精神の両面で疲弊していました。そこで家族の強い勧めで、どこかで何ヶ月か静養する事になりました。 
 選ばれたのがこの町でした。その頃から温泉は出ていましたが、まだ崖の上のホテルも無くて、観光地というより漁師町という雰囲気が色濃い町でした。 
 僕は山の方にあった保養所に入れられました。今では其処も廃業して更地になっているのですが。 
 この町に来た当初の僕は半分廃人みたいな有様でした。日に一度の食事と入浴以外は、ほとんど布団で横になってるようなそんな具合です。 
 しかし、一ヶ月も長閑な空気に親しんでいるうちに、体力も回復して、気分も上向いてきました。 
 誰も僕を知らないし、僕も誰も知らない、そんな真新しい環境が精神に抜群に良く働いたのです。 
 ただ、困った事に元来、落ち着きの無い性質であったので、体調が戻るにつれて、今度は退屈に悩まされるようになりました。 
 田舎町で、遊べるような場所もありません。一応、静養に来ている立場なので、表立って海で泳ぐのもなんだか気が引けます。 
 それでも、海水浴シーズンになれば町外から人が来て、賑やかになるのでしょうが、まだ季節は早く、相手をしてくれそうな観光客もありません。 
 結局、僕は毎朝の散歩と、町の食堂で食べる昼食を何よりの楽しみとして、日々を暮らしていました。 
 それ以外は昼寝しているか、酒を飲んでいるか、温泉に入っているか。凡そ建設的でない時間を過ごしていました。 
 尤も、一ヶ月経った頃には面倒見の良い食堂の女将さんから、日替わりで小説を借りられるようになったので、それからは少しは時間が潰せるようになりましたが。

 

 そうして二ヶ月が経ちました。 
 若かった僕にとっては苦痛に感じる程、緩慢な二ヶ月間でした。 
 ひたすら不毛なサイクルを繰り返す日々に限界と危機感を覚えた僕はある晩、電話で親にいつまでここで暮らしていればいいのか聞いてみました。 
 電話口で父が言うには、現在ではあの事件は沈静化しつつある。しかし、早く戻ったとしても嫌な思いこそすれ、良い思いをする事は無いだろう。 
 保養所の部屋は今年一杯は確保している。大学も事情を深く理解しており、事態が落ち着いてから復学、転学の判断をすれば良いだろう。 
 又、人生に於いては空いた時間も必要であるから、せっかくなので夏休みまでこの町で遊んでいれば良い――との事でした。
 ええ。お察しの通り、父は僕に甘い人です。この対応も父の愛情からくるものでしょう。 
 しかし、僕にとっては退屈な日々の延長を意味します。正直うんざりだったのですが、かと言って、父の配慮を無碍にも出来ません。
 僕は頭を抱えましたが、全ての責任が自分にある以上、いくら苦悩した所でこの町に留まるしか選択肢は無いのでした。 

 

 父親に電話を掛けた日の翌日だったと思います。 
 その日は早寝早起きの生活を続けていた当時の僕にしては珍しく、起床した時には既に昼過ぎになっていました。 
 保養所の裏手の林からはその年最初の蝉時雨。 
 昼食の為に表に出ると、正午の強烈な日差しがアスファルトに照り返されて、まったく焼けるような暑さでした。 
 寝起きからそう時間も経っていない呆けた頭で、真っ白い日光の降り注ぐ住宅街を歩いていると、何やら昨日までとは違う世界に来たような心持がしました。 
 いや、後に分かる事ですが、確かにその日の町は普段とは違っていたのです。 
 僕が歩いている坂道の反対側の路肩を、自転車に乗った四人の子供達が駆け下りて行きました。 
 炎天下を物ともせず、先を争うようにして走り去った彼等の後ろ姿を見て、僕は強烈に少年時代を感じました。 
 食堂は坂の下の交差点にあります。店には昼間から酒を飲んでいる赤ら顔の常連客と、この店にしては珍しく家族連れが二組もいました。 
 僕がテーブルに着くと、小上がりで行儀良く何か麺物を啜っていた女の子と、丁度目が合いました。妙に子供を見掛ける日です。 
 間も無く、女将さんが注文を取りに来ました。僕は借りていた本を女将さんに返却しました。 
 「今日は本当に暑くなりましたね」と僕が言うと、女将さんは「ほんとにねえ、海もあんなになっちゃったし」と答えました。 
 海?何かあったのか聞くと女将さんは、「なんだ知らなかったのか」という風な顔をして「大干潮だよ」と教えてくれました。 
 曰く、朝早くから海面水位が下がり始めて現在に至るまで、随分と長い間引き潮が続いているのだそうです。 
 漁業組合が今日一日、漁を自粛するように各戸に通達し、海岸には町内だけでなく、近隣の町からも見物客が訪れているとの事でした。 
 成る程。ようやく事態を飲み込んだ僕が「こういう事はよくあるのか」と聞くと、女将さんはうんざりした様子で「まさか」と答えました。 
 昼食を食べ終えた僕は、勘定とその日貸してくれる小説を待っていました。 
 奥から出てきた女将さんがテーブルに置いたのは、いつもの文庫本ではなく、よく冷えた三〇〇ミリリットル瓶入りの地サイダーでした。 
 僕が困惑していると、女将さんは「お金は要らないから、それ持ってたまには海で遊んで来な」と笑いながら言いました。 
 今にして思えば、女将さんは僕が毎日、部屋に閉じこもって本ばかり読んでいるのだろうと心配したのかもしれません。 

 

 大干潮の海は実に壮観でした。 
 極限まで遠浅の海が一面干潟になって、遥か彼方に逃げ水のような水平線がぼうっと浮かんでいる。そんな現実味の無い風景が町の前に広がっていました。 
 空は雲一つ無い快晴だというのに、雨の日のアスファルトのような鼻に付く臭いが、地面からもうもうと立ち昇っていました。 
 海水浴場はかなりの人々で賑わっています。 
 片手にサンダルを持ち、笑いながら海水の水溜りにジャブジャブと素足を突っ込んで水を蹴り上げている人。 
 普段は海中に隠れている、小さな生き物が干潟に取り残されてはいないか、じっと目を凝らして、とぼとぼと歩き回る人。 
 海よりも自分達の子供の無邪気な海水浴姿を見に来たという雰囲気の若夫婦。 
 遠くの方で歓声を上げて駆けっこしている小学生の一群はさっき坂道で見掛けた彼らでしょうか。 
 土手に程近く、葦がまばらに生えている辺りでは、数組の家族がドラム缶と焼き網を持ち出してバーベキューをしています。 
 皆、この不思議な海洋現象の中に、自分の居場所を見つけているようです。 
 それらを眺めて、さて僕は何をしようかと考えた時、連れも無い自分には、特にやれるような事も思い浮かびませんでした。 
 僕は仕方なく、土手の階段に座り込みました。暫く日光浴でもしてから帰ろうと思ったのです。 
 太陽に照らされたコンクリート階段の熱が半ズボン越しに伝わってきます。涼しい海風が吹いていましたので、その熱さもまた心地良く感じられました。 
 女将さんから貰ったサイダーが手の中で温くなっていきます。早めに飲もうと思いましたが、手元に栓抜きがありません。我ながら粗忽な事です。 
 空かない瓶を傍らに放り出して、流れ行く入道雲を眺めていると、視界の端に白い物がチラつきました。  
 僕が顔を向けると、そこには一人の女が立っていました。 
 女は着丈の長い淡い黄色のシャツをゆるリと着こなして、どことなく都会的な雰囲気を漂わせていていました。この町の住人ではなさそうです。 
 見た目からすると、年齢は僕と同い年くらいでしょうか。もしかすると十代かもしれません。僕と目が合うと彼女は微笑みました。 
 僕は放り出していた瓶を手に取りました。彼女は僕のその仕草をどう解釈したのか、瓶の置いてあった右隣に座りました。 
 突然、間近に来た彼女に戸惑った僕は、失礼にも彼女の顔をしげしげと見つめてしまいました。 
 彼女も彼女で、そんな僕の表情を可笑しそうに見つめ返します。パチリと瞬きをすると、長い睫毛が静かに揺れるようでした。 
 暫しの無言の後、僕は「どうしたの」と尋ねかけてやめました。彼女からすると、隣に呼び込んだのは僕の方なのです。 
 同年代の人と話すのは久しぶりです。僕は声が上ずらないように心を落ち着けると、「この町の人?」と絞り出すように尋ねました。 
「ううん、違います」
 彼女は事も無く答えました。 
「あなたは?」
「俺?俺は――」
 いつもであれば、病気の為に療養に来ているのだと、お茶を濁すのですが、その時に限っては事情の一切を彼女に打ち明けてしまいたいと強く思いました。 
 何故、そんな風に思ったのか。数日の孤独、大干潮、彼女のあどけなさ、どれか一つでも欠けていたら僕の心境は変わっていたでしょう。 
「ん、なあに?聞こえない」
 彼女が白い犬歯を覗かせて、耳をこちらに向けます。僕はまだ何も言っていません。彼女も、それを承知で聞き逃したフリをしているのです。 
 なんて悪戯っぽい返事の強請り方でしょうか。僕は今までこんな仕草や言動をする女性には出会った事がありませんでした。 
 陽炎に揺らめく道路に、騒がしい声が響きました。 
 見ると運動着姿と制服姿とが入り混じった地元中学校の生徒達が、きゃあきゃあ言いながらスニーカーを脱いでいます。 
 また、何時の間に現れたのか、向こうの方では地方テレビ局の取材班と思しき、機材を抱えた数名の男女が、地元の漁師と立ち話しています。 
 なんとなく興を削がれた気になりましたが、場所を変えるには頃合でした。 
「ちょっと歩こうよ」
 白状すると、当時の僕はこういうシチュエーションに慣れていなかったのです。我ながら声は震えていたと思います。 
 彼女は少し考えてから白い手を伸ばし、僕から瓶を引ったくりました。そして立ち上がると二、三歩、歩き出しました。 
 どうやらそれが肯定のようでした。僕はやっと立ち上がって彼女の後に続きました。 

 

 海水浴場を発った僕らは、言葉も無く、海沿いの国道を真っ直ぐに歩きました。 
 前を歩く彼女の揺れる後ろ姿を僕は見つめていました。少なくとも彼女の足取りは、運動不足の僕のそれよりは軽快でした。 
 道の中程で、彼女は振り返りました。ちゃんと付いてきているか確認するためでしょうか。僕と目が合うと彼女は照れ隠しのように笑いました。 
 やがて、町外れの神社の前に差し掛かりました。普段なら無人同然の閑散とした神社なのですが、その日は鳥居の前に何台か自動車が止まっていました。 
「海の神様を祀る儀式をしてるんだって」
 彼女は神社の奥に目を向けて、呟くように言いました。確かに神社の方向からは野焼きのような臭いがします。儀式の為に火を焚いているのでしょうか。 
 「へぇ、今どきでもこういう事するんだ」と感心する僕に彼女は「皆暇してるのよ」と淡白に言い放ちました。 
 僕らは少しの間、そこに立っていました。神社を囲む鎮守の森。青々とした精気を全身に浴びたような心持がしました。 
 「ねえ、行こう」と彼女が促し、道行きは再開しました。歩き出した僕には、もう以前程の暑気は感じられませんでした。 
 さっき、彼女はこの町の人間ではないと言っていたけど、一体何所から来たのだろう、と僕は歩きながら考えてしました。 
 僕のように何所かに泊まっているのか、それとも大干潮を見る為に他所からやって来たのか。そもそも一人なのか、連れはいないのか。 
 本人に聞いてみるべきなのでしょうが、どうにも言い出せずにいました。 
 彼女は隣に並んで歩いていました。横目で口元を緩く噤んだその表情を見ていると、話し掛けるのが勿体無いような気になりました。 
 ご理解頂けないかもしれませんが、それ程までに彼女に夢中だったのです。 
 先に口を開いたのは彼女の方でした。「いい場所があるの、付いて来て」そう言うが早いか、彼女は歩道から外れました。 
 草地を横切り、土手を下りて、砂利の敷き詰められた空き地をぐんぐん進んで行きます。 
 僕は慌てて付いて行きました。空き地に張られたロープを跨いで、堤防の護岸ブロック上へ。その先には人の手の加えられていない岩場があります。 
 彼女も僕もサンダル履きです。足を切るといけないので、止まるように呼び掛けても彼女は聞きません。堤防の端に立った彼女が一度だけ振り向きました。 
 そして、彼女は地面にに手を付きながら飛び降りました。僕が駆け寄ると、彼女は「ほら、平気だよ」とでも言うように堤防の下に立っていました。 
 思い掛けない事に、護岸ブロックと岩場との間に僅かな隙間が空いていて、そこには柔らかな砂地が顔を覗かせていたのです。 
 「ほら、降りれる?」と彼女は僕に手を差し伸べましたが、僕はその手を借りずに堤防から飛び降りました。彼女は笑いました。 
 岩と岩との合間を縫って砂地は海へと延びています。そこかしこには潮溜まりが取り残されていて、歩いているとすぐにサンダルがずぶ濡れになりました。 
「よく、こんな所を見つけたね」
「ずっと前から知ってたのよ」
 どういう意味?そう聞き返す間も無く、岩場の隙間を抜けて海に出た僕らの目の前に塔のような巨大な岩石が現れました。 
 その岩は開けた浅瀬の真ん中で、他の岩々から孤立するようにそこにありました。僕らは濡れないように、砂と砂利の盛り上がりを辿って岩の麓に近づきました。 
 岩の頂上は鋭利な三角形で、根元近くは垂直に切立っています。僕には聳え立つ山岳を連想させました。 
 海岸の端が崩落した物でしょか、それとも太古の火山噴出物の一つ?この町にこんな奇岩があるとは知りませんでした。 
 陸の方を見ると、僕らがさっきまで歩いていた国道が随分か細く見え、更にその向こうに町並みが遠く霞んでしました。 
 そこで僕はこの岩が毎朝の散歩中に眺めている岩礁の一つだと気が付きました。遠目にはちっぽけだったこの岩が間近で見るとこんな威厳を持っているなんて。 
「ほら、こっちこっち」
 彼女に連れられて、僕は岩の裏側に回り込みました。 
 そこには細かな砂が岩の足元に堆積して作られた、一坪程の小さな砂浜がありました。岩はその部分だけ波風に削られて屏風のようになっています。 
「いい所でしょ」
 砂浜に立った僕らの前には、水底の砂が透けて見える程に浅い、よく澄んだ海と、昼下がりの空が広がっていました。 
 背後の岩に遮られて、浜から離れない限り陸の方は見えません。逆も然りでしょう。僕は更に岩陰に身を隠すように地べたに座り込みました。  
 不思議な事ですが、服に砂が付くなどとは少しも考えませんでした。あらゆる物が清浄に思えたのです。 
 砂浜は狭く、伸ばした足が波打ち際に届いてしまいそうでした。彼女は僕のように尻餅を付いて座る事はせず、ただ隣にしゃがみました。 
「それで、さっきは何か言いたかったんじゃないの?」
「ああ」
 そういえば彼女と出会ったあの海水浴場では、僕がこの町に来た理由を話しそびれていたのでした。
 本当はそんな事もう、どうでも良くなっていたのですが、彼女がそう言うので仕方なく話す事にしました。まだ時間はたっぷりあります。 
 僕は浜に足を投げ出したまま喋り始めました。風が出てきたのか、小波の音が少しだけ大きくなったような気がしました。 
 彼女は黙って聞いていましたが、暫くすると着ているシャツのボタンをぽつぽつと一つずつ外していきました。 
 僕は面食らいましたが、平静を装って出来るだけ意識しないように、目を逸らしながら話を続けました。 
 彼女の肩からシャツがするりと落ちました。伸びやかに立ち上がって、海へと足を踏み入れて行きます。 
 シャツを脱ぐと下着姿になってしまうのではないかと僕は心配しましたが、そこは抜かりなく彼女はシャツの下に真っ白な水着を着込んでいました。 
 水平線に向かって立つ彼女の白い背中。まるで日焼け止めクリームの広告写真のような光景に、思わず僕は見惚れてしまいました。 
「来ないの?」
 振り返った彼女が、砂浜にいる僕に呼び掛けます。 
 その挑発的な微笑に誘われるがまま、僕は足首を水に浸しました。海水は太陽の光で温くなっていました。 
「気持ち良いな」
 僕は呟きました。思えばこの町の海に入ったのは、その時が初めてでした。 
「見て、魚がいる!」
 眼の先で彼女が声を上げました。 
 彼女の指し示す方を見ると、確かにそこは水が深くなっていて、小さな魚が水底に影を落としています。 
 僕が一歩踏み出すと、波紋に驚いたその魚は右、左、手前にと水中を跳び回った挙句、矢のような速度で沖へと泳ぎ去ってしまいました。 

 

 それから暫くして、はしゃぎ疲れた僕達は岩陰の砂浜に並んで座っていました。 
 二人とも全身が海水でべとべとです。ずっと波打ち際で遊んでいたので無理もありません。くたびれた身体に潮騒が染み入ります。 
 彼女が僕の手首を掴みました。どきりとしていると、彼女は僕の手に固くてすべすべとした物を握らせました。 
 それはまさしく、いつか彼女に取り上げられたサイダーの瓶でした。僕はその時まで存在をすっかり忘れていました。 
 見ると瓶の中の液体は、全量の三分の二程度にまで減っています。力を入れて捻ると王冠は呆気なく開きました。 
 瓶に口を付けました。淡いような甘さと、若干の塩味が口内に広がります。 
 炭酸にしては随分と薄味でしたが、それがこのサイダーの特色なのでしょう。嫌いな味ではありません。 
 僕はサイダーを飲み下すと「生き返るよ」と唸りました。「まるでお爺ちゃんみたいね」彼女は可笑しそうに言いました。 
 彼女の言葉は僕の中で奇妙に響きました。ここ数ヶ月の僕の生活は、確かに老人の生活とそう大差無かったのです。 
 心中の苦笑をかみ殺して、僕は仰向けに寝転びました。本当に、抜けるような青空でした。 
 Tシャツの襟に砂粒が入って来ます。もういっその事、身体を捩って砂に塗れました。頭髪を地面に押し付ける堪らない感触。 
 疲れた体を横たえて、火照りを砂に吸われる気持ち良さに思わず寝入りそうになっていると、不意に彼女が覗き込んできました。 
 僕は驚いて体を起こそうとしましたが、彼女は両手で僕の上体を砂浜に押さえ付けました。その力は意外に強く、彼女の細い指が僕の肩に喰い込むのを感じました。 
 「そのまま、じっとして」 
 彼女の手が僕の目を塞ぎました。ひんやりと冷たい手。 
 僕は為すがままに目を閉じました。彼女の指が僕の眉間から静かに離れていきました。 

 

 いつの間にか僕は暗闇の底に沈んでいました。僕の耳に伝わるのは、そよぐような潮騒。時折、幽かに聞こえるハミング。 
 やがて、それらが地鳴りのような音に統一されて僕の鼓膜に直接届けられるようになりました。ああ、眠ってしまう。 
 彼女の手が頬を優しく撫でました。もう何も聞こえません。 
 本当にこのまま眠りに落ちて良いのか。そう思った途端、得体の知れない心細さが僕を襲いました。 
 全身が重たい。寒い。怖い。彼女が傍にいる筈だ、どこに行ったのだろう。 
 体は鉛にでもなったかのように、ぴくりとも動きません。僕は眼球だけを必死に動かしながら、彼女がもう一度触れてくれる事を祈り続けました。 
 いつの間にか、頭上には高い塔がありました。その正体が立ったまま僕を見下ろしている彼女であると気が付くには少々の時間が要りました。 
 天に伸びた彼女の脚の間。その先にある筈の白い水着に包まれた肉体は、下から見上げると何やらよく判別できません。 
 せめて表情が見たい。僕のそんな思いも虚しく、彼女の顔は長い髪と同化して、只の黒い塊として眼に映りました。 
 僕が感じた深い深い絶望をあなたは想像できるでしょうか。 
 意識が途絶えそうになった僕の口から幾つかの気泡が零れました。泡は真っ直ぐに上ってゆき、ぱちんと弾けると同時に世界が大きく波打ちました。 
 泡は次々に弾け、波は瞬く間に激しくなります。空間がぐちゃぐちゃに掻き乱されて、それによって更に泡が立ち、覗き込む彼女の影も見えなくなりました。
 僕は呆けたようにそれを眺めていましたが、やがて、波と波の合間の危うい平静から、一条の光線が射し込んでいるのを目の端に見つけました。 
 光の中では小さな塵がゆっくりと舞っています。早く起きなければ、そう思った瞬間、僕の体は猛烈な勢いで浮上しました。 

 

 海中から跳ね起きると、燃えるような夕日が世界をオレンジ色に染め上げていました。 
 此処は何所だ。膝まで海に浸かり、僕の体はまるで痙攣するように震えています。頭のてっぺんから海水が滝のように流れ落ちます。 
 呼吸が詰まり、苦しくて堪りません。何度も咳き込むと、口から驚く程大きな水塊が吐き出されました。 
 尚も体の震えは止まりませんでした。オレンジに輝く海を虚ろに見ながら、僕は暫くずっと立ち尽くしていました。 
 砂浜に寝転んでいた筈なのに何故、溺れてしまったのだろう。いつの間にか波に攫われて流されてしまったのか。 
 そのまま暫く時が経って、やっと生きた心地がしました。 
 何かの存在を感じて後ろを振り返ると、そこには紛うことなきあの大岩が海面から突き出ていて、打ち寄せる波をその岩肌で受け止めていました。 
 僕はようやく、事態が飲み込めました。引いていた潮が満ちて、眠っていた自分はあの砂浜ごと海中に沈んでしまっていたのだと。 
 僕は水を漕いで岩づたいに裏へと回り込みました。そこからは遠くにぽつぽつと明かりの点き始めた町が見えました。 
 しかし、目覚めてからというもの、彼女の姿が見えません。 
 僕が眠りに落ちた後、彼女は一人でどこかへ行ってしまったのでしょうけど、水没の危険がある場所に置いてけぼりにするなんて些か酷い話です。 
 もう一度会いたい。あの服装を考えると、きっとこの近くに滞在している筈です。ああ何故、彼女に名前すら尋ねなかったのだろう。 
 僕はそんなキリキリとした後悔を抱きながら、重たい体を波に漂わせて陸へと戻りました。 

 

 男はここまで話すと、急に我に返ったように目をしばたたかせて室内を見回した。そして落胆したように目を伏せると、また話しを続けた。 
 その口ぶりは直前までの長々しく大仰な調子とは打って変わって、声のトーンを落とし、早く話を切り上げようとしている様子だった。 
「町に戻った僕は数日間、彼女を探し続けました。さっきも言った通り、町に滞在していると当たりを付けていたのですが、結局は見つけられませんでした」
 私には男がラウンジで会った時より年老いたように見えた。どこか卑小で、萎んでしまったゴム風船を思い起こさせた。 
「その後、僕は予定より早く町を離れました。復学後、無事に卒業して社会人になった後も彼女の事を忘れられず、長い休みの度にこの町に来ました」
 男はずっと膝の上に乗せていた風呂敷包みを解き始めた。包みが解けて、中から現れたのは細長い白木の箱だった。 
「終に彼女は見つかりませんでした。そうして何年か経ったある時、僕は改めて思い知ったのです。やはり僕はあの夏の日、あの海に沈むべきだった」
 男は箱の蓋を開け、そして私の顔を見据えた。その口元には笑みが浮かんでいた。 
「御覧なさい。こういう品物は僕の守備範囲外だけど、それでも最高級の石材だと一目で判る」
 私は立ち上がって箱を覗き込んだ。箱の中には灰色の御影石が収められていた。大きさこそ膝の上に乗るサイズだが、その艶のある正四角柱はまるで――。 
 男は箱の蓋を閉じて、庭の方に顔を向けた。夜明けはまだ遠い。ガラスに男の顔が映る。 
「僕は待っているんです。この町にもう一度大干潮が訪れる、その日を」
「その日が来たら――?」
「その日が来たら僕はもう一度、防波堤を降りて、この石を丁度あの砂浜に埋めてやります。今の僕はその為だけに生きているのです」

 

 私が男の家を後にして夏草の茂る小径に出ると、甲高い音を伴って一陣の風が吹き抜けた。 
 それが海の彼方から渡って来た風なのか、それともホテルの上から吹き降ろした風なのか、私には判らなかった。 
 その後も、ラウンジでは度々、男を見掛けた。しかし、あの夜以降、私と男が会話する事は一度も無かった。 
 更に半年後、私はこの町から引っ越すのだが、その少し前に町に住む高齢の漁師から興味深い話を聞いた。 
 その漁師が言うには、ホテルの崖下近くの岩礁地帯に一際目立つ大岩がある。 
 今となっては由来など誰も知らないが、昔からその岩は女岩と呼ばれており、古い地元民は決して近付こうとはしないのだという。 

 

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