樹木葬

 熱帯雨林の朝は桃色の霧に包まれていた。
 パパが眠っているうちにそっと家を抜け出した僕は、牛乳の大瓶を片手にぶら下げて、未舗装の砂利道を歩いてゆく。
 村外れでは水溜りで遊ぶ小鳥達を、痩せこけた野良犬が恨めしそうに見詰めていた。それを横目に僕は診療所へ続く坂道を上る。坂道の半ばで来た道を振り返ってみると、霧の向こうではあの野良犬の黒い影がまだぽつんと立ち尽くしていた。
 僕が診療所に着くと、デュラン爺はもうバルコニーで葉巻を吹かせていた。
 デュラン爺は黒眼鏡を掛けて安楽椅子に座り、遠くを眺めている。僕は足音を忍ばせてそっと後ろに回りこんだ。そして顔をそっとデュラン爺の頭に近づけると「アアアア!」と耳元で大声を出した。
「オオオオオ!おっほほほほほ」とデュラン爺は驚きと笑いが繋がった面白い声を上げると、僕の手首をガッチリと掴み、僕を抱き寄せた。
「捕まえたぞいたずらっこめ」
 デュラン爺は僕の脇腹をくすぐる。僕はこしょばしくて楽しくてゲラゲラと笑ってしまう。デュラン爺からは葉巻の甘い臭いがした。
「ミルク持って来たよ」
 やっとくすぐりから解放された僕は片手に持っていた牛乳瓶を机の上に置いた。「おう、ありがとうよ」とデュラン爺は葉巻を口に運んだ。
 「何を見ていたの」僕はデュラン爺が見ていた方向に目を向ける。村の反対側、木立を一つ越えた先で一人の農夫がトラックに荷物を積み込んでいるのが見える。そこは朝霧の外で、昇りたての太陽が赤土混じりの大地をスポットライトのように照らし出していた。
「どうだい?ここの暮らしには慣れたかい」
 フー、と白い煙を吐き出したデュラン爺が僕に尋ねた。
「まあね。でも退屈でやんなっちゃうよ。この村ってテレビも通って無いんだから」
 デュラン爺はガハハハと満足気に笑った。
「せめて早く、友達でも出来ればいいんだが」
「ムリだよ。ホントここの人達って何やってるのかわかんない。一日中、森の中をフラフラしているか、藁葺きの中に閉じ篭ってるんだもの」
「ふーん、ムリかね」
 デュラン爺は再び遠くを眺めた。
「確かに……この村で毎日外に働きに出るのはあそこにいるワンバくらいだ」
 ワンバというのは荷物を積んでいる農夫の名前だ。
「それも仕方無い。この村は恵まれとる。ジャングルを歩くだけで食料が手に入るし、こんな場所まで攻めてくる敵もいない……怠け者になるのも当然、分をわきまえればみんなで平和に暮らしてゆけるんだ。閉鎖的なのは賢いからさ。真に自然と調和した暮らしと言える」
 デュラン爺は大きな手の平を僕の頭に乗せた。
「でも、これからは変わっていくだろう。その為にボウズのお父さんが電話線を通しに来たんだからな」
 そう言ってデュラン爺さんはにやりと笑ったけど、その表情はどこか寂しげだった。
 デュラン爺さんは黒眼鏡を少し下げて、上目遣いになって僕を見た。左目は常に目蓋が閉じられていて、皮膚が赤黒く変色していた。
「この目がどうしてこうなったか、の話はしたかな」
「いや、まだだよ」
 僕は嘘を付いた。この話はもう何度も聞いている。だけど僕はこの話が好きだった。
「ふむ、俺がこの村に来たばかりの頃の話だ。今村長をやっているヤニクがまだ子供だったから、30年以上昔になるか」
 ヤニクは村のリーダーだ。長身で、いつも怒った様な顔をしている。あんな鬼みたいな人にも子供の頃があるなんてまるで嘘みたいだ。
「俺は世界中、色々な民族の集落を転々として、最後に行き着いたのがここだった。その頃はこの村は今よりもっと閉鎖的で、村の連中は口も利いてくれんかった。それでも診療所をしばらくやっていると段々連中とも打ち解けてきてな。あれこれと教えてもらったよ。村の事、ジャングルの事」
「俺が一番興味をそそられたのはこの村独特の葬儀方法だった。この村では人が死んだら、その死体を花や葉っぱで飾り付けして―――ボウズも知っているだろう、精霊の樹の根元に寝かせておくんだ」
 精霊の樹というのは村の奥、柵で囲まれた聖域の突き当たりに生えている恐ろしく古い大木だ。高さはそれほどでも無いが、大人が何人かで輪になっても囲めないくらい太くて、途中から幹が腫れたように膨らんでいる。その上からは枝葉が広く伸びていて、緑の天井のようになった樹上から白い蔓が何本も垂れ下がっている。根元にはヒダのような樹の根がボコボコと地表に飛び出していて、その陰は死体を横たえるにはうってつけだ。
「そしてここからが面白いんだが、精霊の樹の根元に寝かせた死体は次の朝にはすっかり消えちまってるんだ。飾りの花や葉っぱや着ていた服はそっくりそのまま残ってるんだぞ。身体だけが跡形も無く消えている。獣の仕業なら花や服を荒らしていくはずだがその痕跡は無い。村の奴らに聞いたら、木に住んでいる精霊が夜のうちに降りてきて死者を連れて行くんだってさ。だからその夜は絶対に誰も聖域に立ち入ってはいけない」
 デュラン爺は開いている右目をくりくりと動かしていかにも楽しそうに語る。
「最初はいわゆるタテマエだと思ってた。つまり、儀式の終わりに死体を運んで埋葬するんじゃないかとね。だけど、本当に死体は一晩中、木の下に放っておくようだった。ある日、村の年寄りが一人死んだ。俺はどういう風になっているか見てやろうと思ってな。儀式が終わった夜、こっそり聖域に忍び込もうとした。だが、聖域の前で寝ずの番をしてた当時の村長にバレて捕まってしまった」
 デュラン爺は潰れている左目を指差した。
「村長は俺の首根っこを掴んで言った。『お前は村のみんなに好かれているし、この村には医者が必要だ。だから命だけは許してやる。だが、ただで返す訳にはいかない』そして、村長は腰にぶら下げていた短刀を引き抜くと俺の目を抉った……」
 デュラン爺はクイっと手首を返す動作をする。
「朝になったら死体は消えて無くなっていたよ。本当に不思議だった」
「デュラン爺はなんでそんな事されたのにまだ村にいるの?村を恨んでないの?」
「村を恨む?どうしてだい?どんな奇妙な風習にも理由があるんだ。勝手に掟を破って聖域に忍び込んだのは自分の責任だ。この片目は当然の報いさ」
 その時はよく解らなかったけど、今となってはデュラン爺の言葉が身に染みて解る。デュラン爺はまた視線を遠くに向けた。
「でも、いつか本当はどうなってるのか知りたいもんだ……なあ、誰にも信じて貰えなかったが、俺はあの木からは特殊な化学物質が分泌されているんだと思うんだ。木の根元に置かれた死体はそれによって蘇り、一人でに何処かへ歩き去っているんじゃないかとな。ヴードゥーにはゾンビを操るゾンビパウダーの伝説があるが、その伝説のモデルになったのはこの村なんじゃないかなあ。馬鹿げてると思うか?」
 僕は首を横に振って言った。
「いいや、きっとその通りだよ。どんな奇妙な風習にも理由があるって!」
「そうか、信じてくれるか! ほら、もうパパが起きる頃だぞ、家に帰りなさい」
 言い終わるとデュラン爺は僕を家に帰した。帰りがけにミルクのお礼だと、ビスケットを一箱持たせてくれた。

 3ヶ月後、デュラン爺が死んだ。
 村唯一の医者である本人が死んだのだ。死因はわからない。ある日、ベッドの中で眠るように事切れていたらしい。デュラン爺は身寄りが無い。村の人達にはこの村で葬儀を行ってくれるよう頼んでいたらしい。
 生前の望み通り、葬儀は村で執り行われた。村の広場に亡骸が置かれた。村人が代わる代わる花や葉を編み込んだ色とりどりの飾りを供えていく。日没後、丸一日掛けてすっかり色鮮やかになったデュラン爺を村の男達が運び出す。運び始める間際、ヤニクがデュラン爺の額にそっとくちづけをした。村人全員が広場に集まっていた。この村にはこんなに人がたくさんいたのかと思うほどだった。僕とパパは人々の一番後ろから男達が死体を運び出すのを眺めていた。
 その夜、パパが眠りに付いてから僕はベッドを抜け出した。いつもの様に音を立てずに玄関の扉を閉めて歩き出す。外を夜中に出歩くのは初めてだったが、不思議と怖く無かった。さっきあんなにたくさんの人達が広場に集まっているのを見たせいだろうか。僕の行く先にデュラン爺が待っているからだろうか。
 聖域の入り口近くにはヤニクの家があったが、身体を伏せて、僕は難なく聖域に忍び込む事ができた。
 闇夜の森の中を這うようにして奥へ奥へと突き進んで行く。やがて、精霊の樹の根元に辿り着いた。持ってきた懐中電灯で根元を照らすと、デュラン爺の死体はまだ木の根に身を預けるようにしてそこにあった。懐中電灯を消した僕はその近くの根の陰に潜り込んだ。息を潜めてデュラン爺に何かが起こらないか様子を覗う。
 しばらく時間が経ち、黄色い満月が丁度僕の真上に来た頃。プーンと甘い匂いが夜風に乗って漂ってきた。少し眠り掛けていた僕はその匂いで目を覚ました。この匂いはデュラン爺の死体に供えられた花の匂いだ。
 僕は根の陰から頭を出した。しばらく辺りを見回しているうちにだんだん闇夜に目が慣れてきて、月明かりだけで周囲の輪郭をはっきりと掴めるようになってくる。
 すぐ近くで何か物音がした。小さなさざめきの様な幽かな音。今までひっきり無しに聞こえている、虫の鳴き声や、藪が風で揺れる音とは違う。今まで聞いた事が無いほど異質な音だった。
 音の出所を探して周りを見渡している僕の視界の片隅で黒い影の塊がのそりと動いた。まるで眠っている人が寝ぼけてモゾモゾと動くような感じだった。
 そこはデュラン爺の死体が安置してある場所だ。僕は根の陰から飛び出した。デュラン爺が蘇ったのかもしれない。僕は真っ白い顔色をしたデュラン爺がむくりと起き上がる様子を思い描いた。デュラン爺が眼を覚ましたらなんて声を掛けようか。いや、そもそも言葉が通じるのかわからない。
 彼の死体に駆け寄り、樹の根にしゃがんで上から覗き込む。月明かりがデュラン爺の死体を浮き上がらせた。僕が彼の手を握ってみると、その手は粘土細工のように固く、冷たかった。
 月光の下で見るデュラン爺の死体はさっき見た時とは違ってどこか不気味に見えた。さっきまではあんなに安らかな顔をしていたのに今は険しく、苦悶に満ちた表情をしているような……。
 いや、表情だけではない。真っ直ぐ天を仰ぐように仰向けに寝ていたはずの体が僅かにうな垂れるように左に傾いている。僕は懐中電灯を点けた。オレンジの光に照らされたデュラン爺の顔はやはり苦しそうだ。褐色の皮膚に黒いシミが目立つ。デュラン爺の顔はこんなにシミだらけだっただろうか。よく見ると、僕が掴んでいる腕にも黒い点々が幾つも。
「あっ!」
 僕が懐中電灯で腕を照らしたその時、物凄い激痛が僕の左手に走った。僕は根の上から後ろ向きに地面に落下する。僕の手からこぼれた懐中電灯が転がり、デュラン爺の死体を地べたから照らした。
「あああああ!」僕は地面をのたうち回る。体が痙攣していう事を利かない。突然の恐慌状態の中、僕の目に映ったのは、懐中電灯に照らされた精霊の樹をびっしりと埋め尽くす無数の黒い粒。その一つ一つが蠢き、波のようにうねる。よく見ると黒い粒は地面にも広がって、今にも僕の足先に届きそうだ。
 消える死体の謎。それは死者が蘇る粉末なんかじゃなく、もっと簡単な理由だった。精霊の樹には古くから肉食の蟻が巣食っていて、根元に供えられた死体は一夜のうちに全て肉食蟻に噛み千切られ、巣穴へ持ち去られるというただそれだけの事だったのだ。
「誰か!助けて!」
 この言葉が声になったのかは分からない。全身が焼けるような痛みの中。僕に出来るのはこの飢えた黒蟻達の食欲がデュラン爺の死体だけで満足してくれるように祈る事だけだった。   

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