【背後守護霊】

 

 高校二年の後期が始まった頃。 
 電灯の点いていない放課後の教室で一人帰り支度をしていた俺は、不意にいたたまれない気分になって立ち尽くした。 
 宵の口に入った校舎内は藍色に沈んでいる。その週は全ての部活動が休みだった。たぶん残っている生徒は自分だけだろう。 
 窓の外には涼しげな秋の日没がどこまでも広がっていた。その下では無人のグラウンドが静かに眠っている。
 当時の俺には酷く憂鬱な風景だった。何を見たとしてもさっきまで別室で進路相談をしていた担任教師の憎たらしいあざけ笑いが甦ってくる。俺の心は塞ぎ込んでいた。 
「ねえ」
 背後から呼ぶ声がした。誰だ、戸が開く音はしなかった。一瞬固まってしまったが、振り返って教室を見渡す。声の主はすぐに見つかった。 
 教室の一番後ろの席に人影があった。イスが床に擦れる音と共に人影が立ち上がった。
「なんだ、■■か」
 その席は紛れもなく彼女の席だ。白い顔が暗闇に映える。感傷に浸っていたところをずっと見られていたかと思うと少し気恥ずかしくなった。取り繕うように俺は訊ねた。 
「こんな時間に何してるの」
 彼女が返事もなく俺のそばに来た。その目は遠く窓の外を見つめている。こんな表情をする奴だっけ。
 俺と彼女は親しい関係ではない。中学は別だったし、普段つるんでいる面子も合わない。高校に入ってからずっと同じクラスというだけで殆ど喋ったことすらなかった。
 要するに彼女は住む世界が違う、そんな壁を感じる存在なのだ。彼女はいつも皆に一目置かれていて、成績も申し分ない。非の打ち所がない優等生だ。その一方でこの俺は何もかもがおちこぼれ。その日残された理由もそんな俺の学業成績が原因だった。 
「そう言う■■君は何をしてたのよ」
 氷柱のような声音で彼女が言った。俺は吃ってしまった。 
「別に……それよりホントに■■はいつからそこにいたんだよ」
 下校もせず暗い教室の中、物音も立てずにただじっと座っているなんて気味が悪い。思わず語気が強くなってしまう。 
「■■君を待ってたの」
「えっ」
 鼓動が早くなった。彼女の言葉にときめきを覚えたからではない。相変わらず冷たい、どこか機械的な声でそんなことを言われたからだ。 
「今日、先生に呼び出されてたでしょ」
「なんでそれを知ってるんだ」
 進路相談については誰にも言っていない筈だった。先生から洩れたのだろうか。嫌な気分だった。短い沈黙の後、彼女が答えた。
「背後守護霊に聞いたから」
「……背後守護霊」
 俺は初めて聞くその単語を噛みしめるように反復した。何やらオカルトめいた響きがする。彼女の口からそんな言葉が吐き出されるなんて。 
「信じてないでしょ」 
「そんなことはないけど」
 実際の所、俺は彼女の言ったことを完全に信じてはいない。しかし、この思い出は今でも俺を宙に浮いたような不思議な気分にさせる。 
「その、背後守護霊ってなんなんだ」
「いつも私の後ろについている幽霊のようなもの」
 俺は無言で彼女の肩の向こう側を窺った。しかし、やはりそこには誰もいない暗い教室が広がっているだけだった。 
「初めて現れたのは私が三歳ぐらいの頃。家で一人遊びをしている時、部屋の隅に変なものがいることに気づいたの。見た目は……虹色をしたヒト型のカメレオンみたいな感じかな」
「なんというか、スゴイな。そんなのがいきなり出てきたら怖かったろ」
 俺の問いに彼女は幾分柔らかい声で答えた。 
「その時は不思議と恐怖を感じなかったわ。それまで意識していなかっただけで、実はずっと前から頭のどこかで存在を認識していたのかも」
 たしかに、物心ついていない幼児であれば奇怪な存在であっても素朴に受け入れてしまうのかもしれない。 
「私が『あなた誰?』と聞くと、そいつは『背後守護霊』とだけ答えた。寂しかった私はすぐに友達になった……それ以来、背後守護霊はいつも私に付いて回っているの。私は好奇心に任せて色々と質問したわ。背後守護霊は無口だったけど、こっちが何かを質問した時はちゃんと答えを返してくれた。しかも、その答えは常に正しいの。ただ知識が豊富というだけでは説明がつかなかったわ。絶対に誰にも知りえないようなこととか、未来の出来事についてまでピタリと言い当てるの。私には答えの意味が理解できない時とか、はぐらかされたように感じる時もあったけどね」
「……」
「いつの間にか、何をするにしてもまず背後守護霊に答えを求めるようになっていた。周りの大人の言うことよりも正確だったし、それに楽だったから。でも……」
 彼女が躊躇するように言い淀んだ。できれば口にしたくない、そんな感じだった。 
「小学三年のある時、いつものように幾つか質問した後で私は呟いた。『あなたの答えはいつも正しいのね』って。そういうつもりじゃなかったけど、それを質問と捉えたんでしょうね。背後守護霊はボソリと言った。『ちがう、一度だけ嘘をつく』ってね。”間違える”、ではなく”嘘をつく”よ。子供心にゾッとしたわ。本当に恐ろしかった。親より信頼していた存在の本性を垣間見えたのよ」
 俯く彼女の肩が震えていた。俺は何も言えなかった。 
「その後、何度問いただしても『一度だけ嘘をつく』の一点張り。色鮮やかで愛嬌すら感じていた背後守護霊の顔が悪意に満ちているように見えたわ。しばらく悩んだ末に私は決めたわ。自分に関わる質問は絶対しないって。なんだか、その『一度きりの嘘』が私にとって命取りになるような気がするから」
 彼女が顔を上げる。暗い教室の中、俺の見間違いでなければ彼女は身体を戦慄かせながらも口元には薄っすらと笑みを浮かべていた。 
「その代わり、私は他の人の疑問や悩みを背後守護霊に訊いて、その人に助言を与えるようになったわ。何故そんなことをするのかというと、それは『一度きりの嘘』がどこか私とは無関係の場所で使われるのを期待して……」
 彼女はハッとしたように言葉を区切った。そして恥じ入るように、細いため息を吐いてから再び口を開いた。 
「いいえ、本当のことを言いましょう。背後守護霊に質問する権利を私だけが持っているのならば、これを使わずにはいられないの。ねえ、わかる?背後守護霊は絶対的な力。もし彼と話せたなら■■君だってきっと」
「もし、俺だったら……」
「とにかく、私の話はこれでおしまいよ。もう帰りましょう、先生が来る」
「あの、今の話が本当だとして、どうして俺にこんな話を」
 俺の問いに答えないまま、彼女はきびすを返した。自分の席でカバンを取り上げる。俺は急いで呼び止めた。 
「おい!」
 彼女が立ち止まって俺の方を振り返った。さっきまでの震えが嘘のように落ち着いている。俺の頭の中では彼女から投げ掛けられた言葉たちが渦巻いていた。 
「背後守護霊は今、この教室にいるのか」
「さっき言ったでしょう。背後守護霊はいつも私について回るって」

 そして俺と彼女はそれぞれ帰路についた。翌日からは今まで通り特に親しくないクラスメイトとして高校生活を全うした。 
 背後守護霊についてもそれきりだ。聞いた話によると卒業後、彼女は東京の大学に進学したらしいが、俺は卒業式以来一度もお目に掛かっていない。 

 そう。君に電話したのはそのことについてなんだ。先週の同窓会に彼女来てなかっただろ。ちょっと気になってさ。今何してるか知らないか。
 え、知らない?でも君たちいつも一緒にいたじゃないか。学校外では付き合いがなかった?
 尊敬はしていたけど友達って感じではなかったって。そんな……いや、そういう物なのかな……。


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